2013年4月27日土曜日

究極のサマータイム(不定時法)



草木も眠る丑三つ時、お江戸日本橋七つ立ち、明け六つなどと言ったフレーズは聞いた事があると思うがこれらは江戸時代用いられていた不定時法のよる時の呼び方である。
不定時法は現代の様に一日を均等に24で割って1時間を決めたのではなく夜明けに星が見えなくなる時を明け六つ(日の出30分前頃)、夕方暗くなり星が見えてくる時(日の入30分後頃)を暮れ六つとして昼と夜を別々に6等分して時間(一刻)を決めた。春分と秋分頃では昼夜の時間が同じなので一刻は2時間となるがそれ以外では昼と夜では一刻の時間が違う。夏では昼の一刻は夜の一刻より長くなり冬ではその逆になる。呼び方は二種類あり、干支で呼ぶ方法と数字で呼ぶ方法だ。
干支は真夜中の12時を「子」、日の出直前を「卯」、南中時を「午」、日暮時を「酉 」としてその間二つの干支が入り一日十二支で表した。そしてそれぞれの干支を四等分して呼んだ。冒頭の丑三つ時は丑時(*1時〜3時)の間を四等分した三番目の時間なので深夜2時から2時30分の間頃となる。
それぞれの干支の真ん中時間には正という字を付けて読んだ。
例えば午(うま)の真ん中を正午(しょううま)とよび現代でも正午として使われている。午前、午後も午の前と後という意味だと思われる。
数字の呼び方は子を九つとしてそれから順に呼んだが九つの次は十ではなく八つとなる。何故九つから始まり次が八つになるのかというと
中国の陰陽説の影響で九が良い数字とされその次の数字は九の倍数の十八とされていた、さらにその次は三倍数の二十七、三十六、、、となる。そしてこの十の位を省略したために九つの次が八つ、その次が六つ、五つ、四つとなったのである。
子の次の丑は八つ、寅は七つというように割り振っていく昼の午にまた九つにもどる。この方法による九の倍数の呼び方では12までは表現出来ないためであろうか?
数字の呼び方は午前、午後で二度出てくるが実生活では支障はなかった
(今でも午前、午後で同じ数字で呼んでいる)
現代では午前5時といえば夏ではすでに明るいが冬では真っ暗である(月夜は別)
しかし午前の七つといったら夏でも冬でも真っ暗なのである。
七つ立ちとはまだ夜があけない暗闇に出発したという事で灯りが必須となる。
江戸の人々は明け六つから暮れ六つにかけて行動した。
要するに明るい時に活動し暗くなったらさっさと寝ていたのである。
菜種油の値段が米の三倍だった時代に油に灯りを付けて行動をするのは採算が合わない。
明るい時にだけ一生懸命活動する江戸時代は究極のサマータイムだとおもうのである。
不夜城であった吉原は別世界であり、庶民は「寝るほど楽はなかりけり浮世のバカが起きて働く」といってさっさと寝ていた。
(*春分、秋分の頃の場合、夏至の時期であれば2時前後になる)


2013年4月24日水曜日

平均は曲者


平均という言葉は日常的に普通に使用されているがかなりの曲者である。
例えば平均寿命を考えてみる。
江戸初期の平均寿命は30歳ぐらいだと推定されている。平均寿命が50歳を超えたのはなんと戦後(1947年)の事である
平均寿命というとほとんどの人がその前後で死亡したと考えてしまうが
江戸初期の人々が30歳前後で、終戦直後の人々が50歳前後で死んだわけではない。
幼児、若年層の死亡率が高いのでこんな数字になってしまう訳である
七五三は死亡率の高い年齢を無事に過ごせた事を祝ったのである
信濃国湯舟沢村(現長野県)の江戸時代の資料によると51歳の平均余命が、
1675~1740年間 男性19.8歳 女性17.4歳
1741~1796年間 男性18.1歳 女性19.5歳
となっている (現代の平均余命)
これによると平均寿命30歳と言われている江戸初期でも51歳になった人の寿命は
平均70歳前後ということになり80歳の人がいても不思議ではないことになる。
平均という言葉はその全体像を歪める曲者である。

2013年4月23日火曜日

砂上のアベノミクス


アベノミクスが持て囃されているがはっきりいって砂上の楼閣である
雰囲気だけで実態がない。民主党時代の鬱憤がたまった中で政党が変わったことへの希望的観測の幻想である
政策そのものも昭和の高度経済成長を目指すような前時代的なもので人口減少という転換期も迎えた社会へのあたらしいビジョンがまったくない
このままでは本当にマズイという危機感が募るばかりである

手巻時計


私の時計は手巻である。
それにはちょっとしたこだわりがある。それは電気をつかわないアイテムだからだ。
スマートフォン、ダブレット、パソコンなど身の回りのグッズは電気で動き、我々はその電気信号により一日中振り回されている。生活の中で最も基本的な時間の管理ぐらいは電気信号に頼らず毎朝ゼンマイを巻く作業を楽しみたい。
ちなみに私の時計は25年前のhamilton9415。結婚前に妻にプレゼントされたもので今でも3~4年に一度オーバーホールに出して使い続けている。そろそろ修理パーツが供給されないといった懸念もあるが、出来るだけ長く使いたい。
決して高い時計ではないが私にはプライスレスの時計です。


後日後記
2018年さすがに部品もなくなり修理も難しくなったので私の還暦の祝いで妻から新しい機械式時計をプレゼントしてもらった。
電気のいらない機械式だが自動巻時計。手巻も可能だが店の人からは日常的に手巻きをするのは時計に負担になるので良くないと言われました。



Max Bill by Junghans Automatic

027 3500 00M
ケースサイズφ38mm
ケース素材ステンレススチール
ムーブメント自動巻 J800.1 
防水性防汗
機能インカブロックショックアブソーバー、ルミナスハンズ&インデックス
風防ドーム型プレキシガラス






地球に感謝


「地球にやさしい」などというフレーズをよく見聞きするがなんか違和感を感じる
それはなにか人間の方が上から目線でかよわい地球を守るイメージがあるからだ。
地球はそんなに弱くない。二酸化炭素がもっと増えようとビクともしない。二酸化炭素が増えて地球が消滅してしまうようなことはないのである。46億年前に誕生し、太陽の寿命が尽きるあと50億年は活動しつづけるであろう。(将来、スターウォーズに出てきた惑星を破壊するような兵器ができれば別であるが・・)
たかが2、3百万年しか生きていない人類が50億年も生き続けるとは考えられない。
ようするに地球は神のように絶対的な存在なのだ。
その神のような存在に「やさしくしよう」なんていうのは身の程知らずである。
人間が環境破壊を続けて困るのは地球ではなく人間なのである。
「地球にやさしく」ではなく「地球を刺激しないように」そして地球に感謝しながら暮らす気持ちが重要である

2013年4月22日月曜日

Yの悲劇 (ウーマンパワー)

x染色体      Y染色体 


初めてY染色体の写真を見たとき愕然とした。それまではY染色体というのはX染色体と同じ大きさで形も立派なYの字だと思い込んでいた。しかし現実はどう考えてもYというよりXのなりそこないといった失敗作のような染色体である。立派なX染色体を二つ持つ女(XX)に、情けないY染色体を持つ男(XY)が生物として勝てるはずがないと悟った。
きっと神様はこれでは男があまりにも悲惨であると思い、女より一回り大きな体とばか力を与えたのだと思う。
大きな体とばか力を与えられ自分の方が優れていると勘違いした男もいたかもしれないが染色体が生物しての優劣を明確に語っている。
ミロのビーナスとミケランジェロのダビデ像を比較してもビーナスの完璧な美しさに対しダビデ像の美しさには部品が余って付けたしたような1箇所が気になる
ということで女性の方が生物として優秀のなのだ。
勘違いした男により築かれた男社会には決別し女性の社会進出を進めるべきで
熟年社会での女性の役割は非常に重要だと思う。ウーマンパワーは偉大である
日本は女性議員の割合が先進諸国に比べ非常に低いと指摘されている。
そこで提案だが議員の性別の割合を法律で定めてはどうだろうか、例えば片方が4分の一以下になってはならないとする。もし選挙で女性が4分の一以下になった場合落選女性候補者の得票上位と当選男性候補者の得票が少ない者を入れ替えて4分の一以上にするのである。

2015-8-4追記
選挙区の議員定数を男女同数と定めれば必ず半分になる。(選挙区の定数は偶数とする)


2021-7-6追記
フランスではパリテ法という法律で男女がほぼ同数になるようになっている。
比例代表のようにして候補者を擁立するが順位は男女を交互にしなくてはいけない。一番目の候補の性別は各政党で定める事ができる。

2023-4-12追記
ノルウェーでも同様の比例代表による男女の割当て制度(クオータ制)があり男女ほぼ同数となっている
(quota:割り当て)

一票の格差

国会議員の一票の格差の問題で一つ提案がある。
それは議員の議決権数をその議員の選挙での得票数で決めるという方法である。
私はマンションの理事長の経験があるがマンションでは組合員の専有面積により総会での議決権数が決められていた。専有面積が40m2以下は議決権1、40-80m2は2、80m2以上は3といった具合である。総会での発言権などその他の権利は平等だ。
議員総数はもっと減らして欲しいが、議決権を得票数で割り振り1票議員とか3票議員などで区別する。採決方法も電子システムにすればよいのである。

熟年国家


人口が減少している。人口が自然減少するのは有史以来初めてのことらしい。
それだけ人口減というのは社会システムの根底から揺り動かす出来事だと思うのだが
それでも日本は従来通りの経済成長を目指している。そして人口が減少する事が一大悪のように考えている。「産めよ増やせよ」の思想から何も変わっていない。
はっきり言って日本はもう若者ではない。鍛えれば鍛えるだけ体力がつく年代ではない。
50~60代のオヤジに100m10秒を切らせるために無理やり鍛えようとしているようなものだ。
それより50~60代なりの成長の仕方があると思うのだが

人口が減少する社会は熟年国家になったということだ。還暦や喜寿を祝うようにめでたい事でもある。今必要なのは人口減少を嘆きながら従来型の経済成長を目指すことではなく熟年国家としての新しい価値判断を模索しながら新しい成長を目指す事だと思う。
このままだと将来、若者一人で老人一人を養わなくてはならいといわれているが、これは単純に65才以上の人が全員養ってもらうという前提である。しかしこれからは元気老人が病気老人をサポートするということも考えられる。老人パワーは偉大なのである。
また経済成長主義により希薄になった近隣のサポート社会が再生されれば多くの人が安心して有意義に歳を重ねる事ができる熟年国家に近づけるのではないだろうか。


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追記 20230803毎日新聞より